川部小は創立151年
川部小学校の移り変わり
新校舎落成
1983年(昭和58年)、校舎の全面改築が終了し、現在の校舎が完成しました。夜間照明灯も完成し、近代的な設備に生まれ変わりました。
1973年(昭和48年)には、創立100周年を記念して盛大に記念式典が催されました。記念碑には、当時の福島県知事木村守江氏による「温故知新」の文字が刻まれています。
そして、1990年(平成2年)にプールが完成し、現在の川部小学校の姿ができあがりました。
145年前の1873年(明治6年)7月3日に、前年(明治5年)の明治政府による学制発布を受けて、当時の小川村・山玉村・瀬戸村・三沢村・大平村の子どもたちが通う小学校として、「温(おん)故(こ)小学校」が創設されました。当時の沼部村は富津村・長子村とともに「脩文小学校」を創立しました。
調べてみると、創立当時、他の勿来地区の小学校もそれぞれ地名ではない名前を学校名としているのです。なぜ地名ではなく「温(おん)故(こ)」だったのでしょう。
創立100周年記念碑に刻まれている「温(おん)故(こ)知(ち)新(しん)」、今から2500年ほど前に中国で活躍した孔子の言葉を集めた『論語』に出てくる有名な言葉ですが、読み下し文は、「故きを温(たず)ねて新しきを知る」です。
「温」を「温(たず)ねて」と読ませることに違和感を感じている方はいないでしょうか。
「古くから伝わる教えを大切にして、新しい知識や見解を得ることが大切である。」ということを孔子は弟子に伝えたのだと言われています。もともと「温」には「復習する」「研究する」と言う意味があるそうです。古い知識や過去の経験も、復習したり研究し直したりすると新しい発見があり、現在の問題の解決の糸口もそこに見つかることもあるのではないでしょうか。
明治6年と言えば、新しい明治の世の中が始まって6年しかたっていません。新しいことばかりでなく、「日本独自のよいところも大切にしたい。」という当時の川部の皆さんの思いが伝わってくる名前ではないかと思います。
というわけで、川部小学校の歴史をさかのぼってみましょう。
川部村立川部小学校~勿来市立川部小学校~いわき市立川部小学校
1945年(昭和20年)、第2次世界大戦が日本の敗戦で終わり、新しい「日本国憲法」の下で、現在の六-三-三制による新しい学校教育が始まりました。1947年(昭和22年)、名称も「川部村立川部小学校」となり、高等科は「川部村立川部中学校」として分離されました。(ただし、中学校が新築される1951年(昭和26年)までは川部小の校舎で中学生も勉強していました。)
1947年(昭和22年) 校歌制定
1953年(昭和28年) 第1校舎東側を改造して「講堂」とする
1955年(昭和30年) 町村合併により「勿来市立川部小学校」と改称
1959年(昭和34年) 給食開始
1966年(昭和41年) 市町村合併いわき市誕生により「いわき市立川部小学校」に
1973年(昭和48年) 体育館落成 創立100周年記念事業
戦後の復興景気により石炭産業も盛り返し、1949年(昭和24年)児童数が再び1,000人を超え、1,022人になりました。しかし、1950年代になると石炭から石油へのエネルギー転換が進み、日本の、川部の経済を支えてきた石炭産業が縮小していきます。
良質な石炭がとれなくなってきたことに加え、炭鉱事故、さらに国のエネルギー政策の石油への転換も加わり、川部地区の炭鉱も次々と閉山していきました。それに伴い、児童数も1959年(昭和34年)の938名をピークに減少していきました。創立100周年の1973年(昭和48年)の児童数は314名なので、16年間で約3分の1になってしまいました。
「黒いダイヤ」と呼ばれていた石炭ですが・・・ (石炭:川部小蔵 全長約50cm 100kgを超える重さです。)
川部尋常高等小学校~川部国民学校
大正時代になると、炭鉱開発が盛んになり、川部小の児童数も増えてゆきます。1913年(大正2年)に沼部分教場は廃止になりましたが、児童の増加に合わせて校舎の増築も進みました。そして、1920年(大正9年)には、高等科も併設され「川部尋常高等小学校」と改称しました。
明治~昭和初期の小学校は、初等科(およそ7歳~10歳)、高等科(およそ11歳~14歳)に分かれていました。現在の学制では小学校は義務教育ですが、当時高等科は義務ではなかったので、初等科を卒業した子ども全員が高等科まで進むとは限りませんでした。大正9年に高等科ができるまで、川部の子どもが高等科に進むには山田尋常高等小学校(現在の菊田小学校)などに行くしかありませんでした。川部に高等科ができたことで、高等科で学ぶ子どもが増えたことは言うまでもありません。
1920年(大正9年)の世界大恐慌のあおりを受け、1925年(大正14年)に炭鉱が休山になったため、一時的に児童数が減少しましたが、1934年(昭和9年)に三沢・山玉・沼部で新たな炭鉱開発が始まり、それに伴い川部村の人口が増え、日中戦争(1937年(昭和12年))による石炭需要の増加で、石炭産業が勢いを取り戻し、1940年(昭和15年)には最多児童数1,036名を記録します。
日本は、徐々に戦時体制を敷くようになり、国の政策で校名も1941年(昭和16年)2月「石木(いわき)郡川部国民学校」に改称されました。その後日本はアジア太平洋戦争(1941年(昭和16年)12月8日~)に突入していきます。経済や生活が政府の統制のもとにおかれ、そして空襲による国内産業へのダメージは、石炭産業にも大きな影響を及ぼし、児童数も一時減少しました。
川部小学校の児童の増減は、石炭産業の盛衰、ひいては、国際情勢に左右されていたという一面があります。
創立~小川尋常小学校~川部尋常小学校
1873年(明治6年)、浄円寺にあった江戸時代享保年間に建てられた寺子屋を借りて、川部小学校はスタートしました。
1873年(明治6年)7月3日に、現在の川部地区は「温故小学校」という名称で、沼部地区は「脩文小学校」という名称で開校されました。1887年(明治20年)、「小川尋常小学校」として現在の場所(川原65番地の1)に住民の寄附をもとに校舎を新築しました。1889年(明治22年)に5つの村(小川村・沼部村・山玉村・瀬戸村・三沢村)が合併して川部村が成立すると、小川尋常小学校は翌1890年(明治25年)「川部村立川部尋常小学校」と改称しました。当初、沼部地区には分教場が置かれましたが、1892年(明治25年)沼部と下小川とで「川部村立川部第二尋常小学校」ができました。
その後、学区の変更等がありましたが、1909年(明治42年)に沼部地区に「沼部分教場」を置き合わせて「川部村立川部尋常小学校」と称し、校地を造成してこの写真のような校舎を増築しました。
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