川部小に込めた地域の願い

1. 虫眼鏡川部尋常高等小学校~川部国民学校

投稿日時: 2018/10/01 e68-投稿管理者

 大正時代になると、炭鉱開発が盛んになり、川部小の児童数も増えてゆきます。1913年(大正2年)に沼部分教場は廃止になりましたが、児童の増加に合わせて校舎の増築も進みました。そして、1920年(大正9年)には、高等科も併設され「川部尋常高等小学校」と改称しました。

 

 明治~昭和初期の小学校は、初等科(およそ7歳~10歳)、高等科(およそ11歳~14歳)に分かれていました。現在の学制では小学校は義務教育ですが、当時高等科は義務ではなかったので、初等科を卒業した子ども全員が高等科まで進むとは限りませんでした。大正9年に高等科ができるまで、川部の子どもが高等科に進むには山田尋常高等小学校(現在の菊田小学校)などに行くしかありませんでした。川部に高等科ができたことで、高等科で学ぶ子どもが増えたことは言うまでもありません。

 1920年(大正9年)の世界大恐慌のあおりを受け、1925年(大正14年)に炭鉱が休山になったため、一時的に児童数が減少しましたが、1934年(昭和9年)に三沢・山玉・沼部で新たな炭鉱開発が始まり、それに伴い川部村の人口が増え、日中戦争(1937年(昭和12年))による石炭需要の増加で、石炭産業が勢いを取り戻し、1940年(昭和15年)には最多児童数1,036名を記録します。

    

 日本は、徐々に戦時体制を敷くようになり、国の政策で校名も1941年(昭和16年)2月「石木(いわき)郡川部国民学校」に改称されました。その後日本はアジア太平洋戦争(1941年(昭和16年)12月8日~)に突入していきます。経済や生活が政府の統制のもとにおかれ、そして空襲による国内産業へのダメージは、石炭産業にも大きな影響を及ぼし、児童数も一時減少しました。

 川部小学校の児童の増減は、石炭産業の盛衰、ひいては、国際情勢に左右されていたという一面があります。