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カテゴリ:歴史

笠間藩神谷陣屋の配置

笠間分領神谷陣屋図(※『いわき市史 第2巻 近世』より)

本校の敷地にあったとされる神谷陣屋は、小川江筋を間にはさみ、山を背景に天然の地形を利用したものでした。周囲は板塀で、外郭をめぐらし、門前には幅40間(72.2メートル)、長さ100間(182.8メートル)に達する馬場があり、家臣たちの教練場に当てられていたそうです。

陣屋内には郡奉行等の官宅、詰所、道場、土蔵倉庫、砲術伝習所、備荒米倉庫、足軽長屋があり、陣屋の南にある立鉾山のふもとには非常用水堀などがありました。陣屋の外には武家屋敷が一集落をなしていたそうです。(参考『いわき市史 第2巻 近世』)

※「役所」は現在の西側校舎のあたりにありました。「大門」は校庭の中央あたりにあり、現在の校庭を横切るように(西門からプールを結ぶように)外郭があったと考えられます。

 

 

現在の平第六小学校(※国土地理院地図)

「奉公碑」拓本(笠間藩神谷陣屋の歴史)

本校の用務員さんが、夏休み中の自由研究として「奉公碑」(本校の敷地に笠間藩の陣屋が置かれていたことを示す石碑)の拓本に挑戦しました。

 

拓本

木・石・石碑・金属等に紙をあて、墨を使って、そこに刻んである文字・模様をうつしとったもの。(岩波「国語辞典」より)

奉公碑(笠間藩神谷陣屋の歴史)

奉公碑 ※大正6年建立

本校の敷地に建つ石碑。笠間藩の陣屋が置かれていたことや、戊辰戦争時の陣屋にいた笠間藩士の攻防の様子などが刻まれている。

 

額字(篆額):牧野貞亮氏(笠間藩牧野氏)

 

文:木村信義氏(※旧笠間藩士で茨城県笠間市の実業家、日本画家 木村武山の父)

書:野田庸信氏

龍の彫刻(笠間藩神谷陣屋の歴史)

龍の彫刻

江戸時代から明治初期、本校の敷地にあった笠間藩神谷陣屋に飾られていた装飾の一部。明治6年(1873年) 学校創立を記念して、笠間藩神谷陣屋を所領していた笠間藩主牧野公が、当時の陣屋の室内装飾の一部であるこの「龍の彫刻」を本校に寄贈された。陣屋の2階(玄関の上)に飾られていたものとの記録がある。

 

※笠間藩神谷陣屋について

笠間藩神谷陣屋は戊辰戦争で焼失、その後まもなく再建され藩政を執行したが、明治4年(1871年)の廃藩置県により、現在のいわき駅前周辺に磐前県の庁舎が設置されたため、陣屋は使用されなくなり、小学校の校舎として使用することとなった。ちなみに明治6年の開校当時は笠間藩牧野氏の紋章である柏葉を校章としていた。また、当時、地域の学校建設は村民が負担していたが、神谷陣屋が使用できたことで、校舎建築の負担なく学校を開設することができた。(参考:志賀伝吉氏『神谷村史』)

校舎の変遷

大正13年(1924年) 

上棟式の様子。本校を記録する写真の中でもっとも古い写真です。

 

このような図面も残されていました。

 

昭和初期 ※昭和11年(1936年)以前

当時の運動会を撮影したもの。中央にやぐらが組まれ、万国旗らしきものも見えます。

 

昭和11年(1936年) 

当時の学校の全体像です。4つの大きな建物が見えます。左手前は講堂だったそうです。

 

昭和36年(1961年)ごろ

新校舎(おそらく本校舎の右)落成を記念して撮影されたものと考えられます。このころ、給食施設が完備され、完全給食となったそうです。校庭も広くなっています。

 

昭和48年(1973年

創立100周年を記念して撮影されたものです。本校舎は鉄筋コンクリート造りとなり、プール、体育館も造られています。

 

平成5年(1993年)*ユニオン・エンタープライズ(株)撮影

創立120周年を記念して撮影されたものです。東校舎(本校舎右)も鉄筋コンクリートとなり、プールも改築されています。

 

平成12年(2000年)*ユニオン・エンタープライズ(株)撮影

校舎大規模改造完成を記念して撮影されたものです。本校舎の一部が2階建てとなっています。