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2018年9月の記事一覧

NEW 白水小学校の歴史④

 上の写真は昭和30年度の運動会の写真です。校庭の端から端まで子どもたちがずらりと並び、応援する保護者は二重、三重となって校庭を取り囲みました。

 独立した昭和28年に550名だった児童数は昭和33年には775名まで増加し、昭和35年には全学年が3学級編成の全18学級となりました。白水小学校が一番賑わっていた当時の写真の1枚です。

 歴史上、白水小学校に最も児童数が多く、賑わっていたころですが、炭鉱の私立学校から始まり、炭鉱で働く方々の子どもが学ぶ学校であった白水小学校にとって、炭鉱の閉山に伴う不況の波は大きなものであったようです。

 本校第3代校長の佐藤恂先生は、当時の様子を次のように述べています。

「私が白水小学校長を拝命したのは昭和34年の4月だった。その当時の白水小学校は独立日が浅く内容外観共にやらなければならない仕事はあまりに多過ぎたので何から手をつければよいかと思い悩んだ。当時、炭鉱は不況のどん底にあった。こうした生活の不安は無邪気な子供たちにも影響しない筈はない。何とか救う道はないものかと考えてはみたものの、怒涛のように不況の荒浪はいかんともしがたい。子供たちが学校にいる時だけでも楽しく明るく暮らさせてやりたい。それが私に出来る唯一の道だと知った時、私の心は決まった。(中略)

 校舎が暗いのは天井板や壁がすすけているからだし、うるおいがないのは、緑の木や花がないからだ。原因が分かれば治療は簡単だ。簡単だといっても金があればの話。不況に悩んでいる父兄から寄付を集めることは絶対にできない。こうなったら教師自らの手でやるしかない。先生方に相談したら喜んで賛成してくれた。

 ペンキを塗るのは器用な松田先生が中心となってやることにした。授業が終わってから始めるのだから、どうしても五時か六時頃まではかかる。冬の日は短く、暗い道を手探りで帰った日が何日あったか知れない。

 壁を塗るのは私が引き受けた。これは簡単だ。塗料をべたべた塗ればよい。穴の所は新聞紙をとかしてのりを混ぜて穴につめこみ、その上に塗料を塗る。

 樹木を集めるのは、私と佐々木教頭が先頭となる。木を寄付してもよいと聞くと、2人でリヤカーを引っ張ってどこまでもおしかけていく。掘り起こすのも容易でないが、植え付けるのも骨が折れた。空き地には草花を植えた。学校が見違えるように美しくなった。花園のような学校だと言われて嬉しかったものだ。」

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NEW 白水小学校の歴史③ 白水小学校の独立

 終戦後の昭和28年。内郷第二尋常小学校(現:内町小学校)は児童数が相当に増えたために、白水分教場は晴れて「白水小学校」として独立します。

 残されていた写真には、白水小学校が誕生する日に、現在の内町小学校でお別れの式典を行い、その後、徒歩で移動する子どもたちの姿がありました。

  白水町には独立して学校ができるという明るいニュースでしたが、その当時はエネルギー革命が始まったころでもあり、炭鉱は衰退を始めていた頃のようです。このあたりの様子を白水小学校初代校長の永井昌次先生の手記から紹介します。

~初代校長、永井昌次先生の手記より~

 昭和28年4月1日、内郷町立白水小学校が創設され、私が初代の学校長として任命されました。白水地区と言えば、常磐炭鉱の発祥地で沢全体がほとんど炭鉱依存による生活で昔時はその隆盛を極めた地、28年当時は、昔の姿は見られず炭鉱施設も遂時取り払われ、また、中小炭鉱も水没等による廃鉱の止む無き事などで生活全体に深刻さを増しつつあったように思われてなりません。

 この様な地域社会の環境下にあって学校の誕生・独立、各学年2学級編成12学級、職員数15名、在籍児童数550名、第1回卒業生約110名、こうした状況下における学校経営方針は如何にあるべきかなど、当初は毎日のように職員会議や打合せ会、PTA役員会等を開いて語り合いました。

【新校舎の建設】

  分校時代の校舎は、狭い上に古い。そのため、町当局のお力によって2階建て8教室の建築に取り掛かり、28年9月にその落成式を挙行することができました。子どもたちの喜びは言うまでもなく、白水町全体が明るさと喜びに満ちました。

 

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NEW 白水小学校の歴史② 炭鉱の学校から公立小学校へ

 白水小学校の前身である私塾「智徳学館」の設立当時は、炭鉱夫の納屋を校舎代わりとし、25名の児童から始まりました。しかし、年々児童数が増え、明治34年に現在の白水小学校の敷地に新校舎が建設されました。歴史①で掲載した写真はその新校舎設立当時のものです。 

 しかし、私塾であったために、智徳学館の出身者は義務教育を修了したと認められなかったため、鈴木義教氏のご尽力によって、智徳学館を廃し、「内郷村代用私立智徳尋常小学校」と改称しました。このことによって私立の尋常小学校を創立することができました。

 明治40年には、児童数が350名となり、智徳学館を設立した東本願寺は、この私立小学校の設立権を入山採炭株式会社、王城炭鉱株式会社に譲ります。この2つの炭鉱の共同経営によって、明治31年4月からは「私立炭鉱尋常小学校」と改称、翌年からは「入山王城炭鉱私立尋常小学校」と改称されました。

 大正元年になると、入山採炭株式会社は湯本に「私立入山尋常小学校」を設立したために、経営権から離脱し、王城採炭、磐前炭鉱、山崎炭鉱の3つの炭鉱による共同経営となります。

 大正12年、父兄からの要望によって、この3つの炭鉱は学校の所有権を内郷村に寄贈し、公立学校となります。しかし、単独の小学校ではなく、「内郷第二尋常小学校白水分教場」として、現在の内町小学校の分校となります。1年生から5年生までがこの白水分教場で学び、6年生になると本校(現在の内町小学校)へ通っていました。

 昭和になると、児童数が増え続け、昭和13年には、1年生から5年生までが通う白水分教場で学ぶ児童数が410名になります。子どもたちのすべてが教室に子どもが入ることができず、翌年からは5.6年生が本校へ、さらに翌年からは4.5.6年生が本校に通うようになります。

 下の写真は、昭和元年の内郷第二尋常小学校と白水分教場で学ぶ児童数の数が分かる貴重な資料です。白水分教場には5年生までが通っていましたが、学級数が5から4に変更されています。学年で30人が在籍していても、複式学級であったことが分かります。

 この後、太平洋戦争が起きて、児童数等の記録等は途絶えてしまいます。

 太平洋戦争中には、白水小学校の西側の湯の岳にB29爆撃機が墜落したというお話も地域の方から伺いました。

 

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NEW 白水小学校の歴史① 私塾「智徳学館」の誕生

 白水小学校の沿革を読むと、明治時代の「西南の役」から、その長い歴史が始まります。

『安政2年。片寄平蔵氏が弥勒沢(白水町廣畑地内)に於いて石炭を発見し、採炭販売に従事するが、小規模な狸掘りの域を出なかった。明治10年、西南の役によって京浜工業地区へ九州炭の供給が絶えて以来、常磐炭田は中央の事業家の注目するところとなり、本格的な開発が行われ、明治27年頃から近代産業としての形態を為すに至った。明治30年頃には、入山採炭株式会社、白水炭鉱株式会社、岡田炭鉱、山口炭鉱等が白水地区にあって、事業は盛大となり、職員・従業員が急激に集まった。当時は、公立学校が内町にあったが、一日に数十回絶え間なく石炭運搬の鉄道が往復していたので通学が危険なばかりでなく、炭鉱開設直後で橋梁等もない悪路であり、且つ遠路のため、通学が困難であった。こうした状況を憂いた東本願寺入山説教所の藤内得成師は私塾設立の計画を立て、明治31年に白水町川平71番地に「智徳学館」を設立した。』

 この私塾「智徳学館」が白水小学校の前身でした。

 

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