草野中学校の様子

2016年9月の記事一覧

全日本合唱コンクール東北支部大会入賞

 9月17日(土)に、山形県山形市のやまぎんホールで、全日本合唱コンクール東北支部大会が開催されました。
 草野中学校は、昨年に引き続き2年連続の出場となりました。また、ステージ順番は、19番目でした。
 そして、同声の部最少人数の10名での出場でした。演奏曲は、無伴奏女声合唱の
ための福島雄次郎作曲「南島歌遊び」
から『朝の祈り』と『陽気な娘たち』をすばらしい歌声で発表しました。
 人数が少ないのをひとり一人がしっかりと声を出すことで、終了後会場から大きな拍手をいただくことができました。
 結果は、今までで最高の銅賞を受賞しました。いわき勢としては、平1中の銀につぐ好成績でした。本当に、
お疲れ様でした。そして、応援ありがとうございました。


図書支援員さんのおすすめ図書

       

 「自分を操る超集中力/メンタリストDaiGo」

 集中力にまつわる誤解とは、「集中力=生まれ持った資質」という思い込みです。これは、
1章冒頭より引用しましたが、逆に言えば、集中力はトレーニングをつめば確実に向上するの
です。
 この本では、集中力のメカニズムをわかりやすく解説し、正しい理論を身につけ早速今から
実践できるメソッドが多く書かれています。

 集中力をコントロールする技術を身につけて、今より時間の密度を高めてみませんか?

後期生徒会選挙

 水曜日6校時目に、生徒会選挙が実施されました。会長副会長書記会計ともに、立候補者が、
定員ぎりぎりで、今回は信任投票となりましたが、各候補者から、役員に向けての意気込みが
発表されました。その結果、全員信任を受け、当選となりました。

駅伝表彰

 水曜日6校時目の生徒会選挙前に、駅伝の表彰式がありました。選手は勿論、男女の補欠の選手も、登壇し、
優勝、入賞の表彰状を受け取りました。
 県大会は、10月6日に西白河の西郷村台上の林間コースで実施される予定です。

公民館でのお年寄りとの交流(1年体験事業)

 9月6日の1年体験活動では、草野公民館での地域のお年寄りの方々と交流を図りました。
 まず、最初に学校での生活のようすを写真などをまじえて説明し、質問などをお受けしました。
その後、お年寄りの方々から、あやとりなどを教わり、遊びの中での交流を図りました。
 最後に、合唱やリコーダー演奏を披露して、楽しい一日となりました。


駅伝試走

 昨日、県大会が開催される西郷村立西郷二中のそばの台上において、本校駅伝チームの初めての試走が実施されました。
今回の試走では、1年の駅伝メンバーの坂本菜月さんと2年小野美咲さんのおじいちゃんが運転手を買って出てくれました。
ありがとうございます。
 県内各地から、約20チームほど来ていて、試走していました。昨日は、新人陸上大会が開催されている地区も有り、
それほど多くありませんでした。
 コースは、林間の行きが上り、帰りが下りのほぼ直線となっています。登りも下りもきつく、辛いコースではありますが、
みんな元気に試走を繰り返していました。
 
 コース近くに民家があり、3日しか試走できませんが、来週と再来週の日曜日2回を貴重に活用して頑張りますので、
応援よろしくお願いします。
がんばれ草中駅伝チーム!!





放送朝会 クラス対抗校歌斉唱

 今週の放送朝会が、朝放送室で行われました。はじめに、陸上関係の表彰がありました。
 全日本通信陸上福島県大会での入賞者、1500m2位、3000m4位の枝川大祐君と800m
6位の河野雅生君、市新人陸上で1500mで5位入賞した新妻乃々香さんと7位入賞の石川砂羽さん、
福島県ジュニア陸上選手権の3000mで5位入賞した枝川大祐君が表彰されました。
 朝会の中で、校歌斉唱が有り、生徒会役員で毎回どのクラスが一番しっかり歌っているかの審査が
ありますが、今週は1位が1組、2年2組、3年3組の結果となりました。

1年放射線授業

 昨日、1年生は、体育館で放射線の授業を受講した。講師には、いわき明星大学特任教授の石川哲夫様とエネルギー
環境理科教育推進研究所の赤坂光博様が来校されました。石川先生は、身の回りの放射線の話しから、原子力発電所の
事故とその後についての話しをされたあと、いろいろな実験器具を使用して、わかりやすく放射線と放射能の違いや
目に見えない放射線のようすを日本でも数の少ない器具を使って、目に見える形で紹介してくださいました。わずか
2時間ではありましたが、生徒達は、放射線について、理解を深めることが出来ました。
   

いじめのないいわきが輝く街づくり 作文・標語コンクール出品作品

いじめのない子どもが輝くまちづくり運動
いじめ根絶作文・標語

「いじめ」と「いじり」の境界線
          2年 村上莉花
   何処までがいじめなのか。私はふと、疑問に思いました。つまり、「いじめ」と「いじり」の境界線は何で決まるのか、ということです。
 最近の人たちは、私が言うのも何なのですが、言葉遣いが悪いです。人に対して、「バカ」や「死ね」など普通に罪悪感などまったくもたずに使います。そして、「いじり」です。相手を思いやっての言葉なら良いのですが、「この子は優しいからこれをしても大丈夫だろう」と一方的な思い込みで相手の嫌がることをする人も増えてきました。それは、ほぼ「いじめ」に近いもの。物を隠したり、相手を傷つける言葉を発したり。私としては、完璧にいじめだと思っています。でも、やっている本人は悪意を一欠片をも感じていません。そして、やられている本人もニコニコ笑っています。私が、おかしいのか。そう思いました。
 私は、何度もそのことで迷いました。自分がやられたこともありますし、他人がやられているのも見たことがあります。そして、やったこともあります。
 「物を隠す」ということが現在増えてきていることの一つだと思います。よくよく考えると、犯罪になりかねません。私も親しい友達に何度かやったことがあるので、やっている人の気持ちがよくわかります。本当に気軽な気持ちでやっているのです。かまって、かまって、と一つの愛情表現みたいなものです。しかし、やられている側はどうでしょうか。私は一回、ものすごく激怒したことがあります。
 仲の良い友達に上着を隠された時のことです。私は、上着を一生懸命探しました。友達にも間違ってないか、確認しました。その時友達は「持ってない」と答えました。いくら探しても見つからなかったので、友達を疑うみたいで嫌だったのですが、もう一度友達に聞いてみました。すると、「うん。これだよ」とずっと手に持っていた上着を差し出したのです。そのことに私は頭にきて、その日は帰りました。
 今思うとそれは、とても自分勝手な気持ちだった気がします。人にやったことを、自分がやられたら、怒るなんて。その時の私はきっと、隠されたことに怒っているのではなく嘘をつかれたことに怒っていたのだと思います。
 これはまだ何だと思えることです。自分がしたことがそのまま帰ってきただけなのですから。私が今でも悩んでいることは、他人がやられるのを見ていたことです。
 彼女はとても優しい子です。嫌なことも文句一つ言わず笑顔でやるすばらしい子です。彼女は優しすぎるゆえに、よく「いじり」の対象にされていました。ある日、移動教室の時、確かに持ってきた彼女の筆箱が消えました。彼女は必死になって探しました。私も協力しました。ただ、気になったのが、目の前に座っていた女子二人です。なにかを隠しているようなそんな顔をしていました。二人にも聞きましたが、「知らない」と答えるだけでした。結局、見つからず私のシャーペンや消しゴムを貸すことにしました。すると、机の上には、ついさっきまでなかった筆箱が置いてありました。目の前に座っていた女子二人は「私たち知らない」と言いながら笑っており、罪悪感は感じられませんでした。そして、優しい彼女は悲しそうな顔をしたのです。
 私はこの時、「やめなよ」と言うべきでした。でも、二人の悪意のない笑いになんて言って良いか分かりませんでした。
 そして、考えました。「いじめ」について。最近では、被害者がいじめと思えば「いじめ」なんていうことも言われています。それは、確かにそうだと思います。しかし、それだけだと不十分です。「周りが見ていて不快な言動を他人に対してしていること」もいじめだと思います。
 人を傷つけることは簡単です。でも、人と仲良く分かち合うことは容易ではありません。だからと言って簡単な方に逃げてはいけません。それは、自分の弱さです。
 私はこれから、人に対して、一緒にいたいと思われる、心の温かな人間になりたいです。いじめも決してせず、他人と強い絆を持てる人間になりたいです。そのためには、人の気持ちを考え、これをやられたらどう思うかなどと、想像し、他人と歩み寄る強さを持ちたいです。


明るい未来へ
     2年 熊谷 直人
 「いじめ」どうしてこの世の中には、こんなことがたくさん起きるのだろうか。
 これは、日本だけではなく、世界中どこにいても起きていることだ。
 ぼく達と同じくらいの年の人達がいじめを苦に自殺をしているが、このニュースを見るたびに、ぼくは辛く切ない気持ちになる。
 テレビを見ていると、いつも誰かが自殺をした後に、学校や親が初めて知ったような話をしているが、本当にそうなのかと疑問に思うことがある。また、まわりの友人達も気づいてない訳がないとぼくは思う。
 そうするのは、皆、自分を一番に守りたいからだと思う。実際、そういう場を見ておもしろがっている人達もいると思う。しかし、心の中では、「かわいそう」「助けてあげたい」と本当は、そのいじめをよく思っていない人も絶対にいるはずだ。でも、助けたことにより、「今度は自分がいじめられるかもしれない」という不安や恐怖が、その助ける勇気を押し殺してしまっているのだと思う。
 「あの時、ああしてあげていれば、こうしてあげていれば」と後から後悔しても、亡くなった人はもう二度と戻ってこないのだ。亡くなった人の家族も、いじめをしていた方の家族も、助けられなかった人達も、これから先、ずっとその悲しみと罪悪感を背負って生きていかなければならないのではないか。そしたら、その先、だれが幸せになれるのだろうか。
 だれもしあわせになれないのではないかと、ぼくは思う。
 「十人十色」この四字熟語はよく聞いていたが、十人いたら十人がさまざまなのだと。
 だから、実際に性格の合う人と会わない人がいても、おかしくないのだ。無理に合わせる必要もないとは思うが、強い人間が、集団で弱い人間をいじいめることは、どうだろう。
 これは、一番やってはいけないことではないだろうか。
 よく、いじめは、いじめる方にもいじめられる方にも原因があるというが、いじめる人は、その人の何が気に入らないのか、いじめられる人は、自分のどういう所が気に入られていないのか、それがお互い分かればいじめは起きないのではないか、いろいろ考えてみた。
 ぼくが考えられたのは、いじめる方にも、「何か悩みがあるのでは」ということだ。
 例えば、「実は寂しい」とか「自分ないものを持っているしっと」、「仕返し」、「反応が楽しい」、「ストレス解消の為」など考えられることはたくさんあると思う。
 一方、いじめられる方は、「なまいきな態度をとっていた」とか、「いじめがいのある反応をとっていた」とか、「うそつき」、とか原因はいくつか考えられた。
 ぼくは、言葉は何のためにあるのだろうかと思った。
 解決策としては、その時、その場で話し合って解決できることが本当は一番良いのではないかと思う。
 しかし、それができなかったら、けんかなどをし、お互いに素直になれず、誤解の気持ちを持って、いじめる仲間を増やしていき、集団でいじめをすることに繋がるのではないか。
 そうすると、その間で、一方の話ししか聞かず、いじめに加わっていた人間が、もしかしたら一番最低な人間なのではないかと思った。
 ぼくは、嫌なことがあった時や、疲れた時いつもより多くのため息がでているらしい。
 そんな時、だいたい気づくのが母だ。
「何かあった。」
と聞いてくる。
「何で」
とぼくが言うと、
「さっきからため息ばかりついているから。」
と、すぐわかるらしい。そうすると、ぼくは、少し気持ちが軽くなり、「足が痛い」とか、自然とはきだすことができる。
 そして、いろいろ話し合い、「次の日も頑張ろう」という気持ちになれるのだ。
 ぼくにはぼくを守ってくれる場所がある。そして、楽しく遊べる仲間がいる。そんな人達に支えられて、自分は幸せだとつくづく感じた。
 ぼくの周りには、そういう人達がたくさんいる。心から信頼できる仲間がいる。
 だから、ぼくの周りでいじめられている人がいれば、ぼくは、勇気をだしてそういう子を助けたいと思う。
 そして、その子にたくさん笑って生きて欲しいと思う。
 死んでも何一ついいことはない。そう伝えたい。一緒に勇気を出そう。
 


2年 小野 美咲

   じょうだんの
           つもりだった・・・じゃ
                            許されない。