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NEW 白水小学校の歴史② 炭鉱の学校から公立小学校へ

 白水小学校の前身である私塾「智徳学館」の設立当時は、炭鉱夫の納屋を校舎代わりとし、25名の児童から始まりました。しかし、年々児童数が増え、明治34年に現在の白水小学校の敷地に新校舎が建設されました。歴史①で掲載した写真はその新校舎設立当時のものです。 

 しかし、私塾であったために、智徳学館の出身者は義務教育を修了したと認められなかったため、鈴木義教氏のご尽力によって、智徳学館を廃し、「内郷村代用私立智徳尋常小学校」と改称しました。このことによって私立の尋常小学校を創立することができました。

 明治40年には、児童数が350名となり、智徳学館を設立した東本願寺は、この私立小学校の設立権を入山採炭株式会社、王城炭鉱株式会社に譲ります。この2つの炭鉱の共同経営によって、明治31年4月からは「私立炭鉱尋常小学校」と改称、翌年からは「入山王城炭鉱私立尋常小学校」と改称されました。

 大正元年になると、入山採炭株式会社は湯本に「私立入山尋常小学校」を設立したために、経営権から離脱し、王城採炭、磐前炭鉱、山崎炭鉱の3つの炭鉱による共同経営となります。

 大正12年、父兄からの要望によって、この3つの炭鉱は学校の所有権を内郷村に寄贈し、公立学校となります。しかし、単独の小学校ではなく、「内郷第二尋常小学校白水分教場」として、現在の内町小学校の分校となります。1年生から5年生までがこの白水分教場で学び、6年生になると本校(現在の内町小学校)へ通っていました。

 昭和になると、児童数が増え続け、昭和13年には、1年生から5年生までが通う白水分教場で学ぶ児童数が410名になります。子どもたちのすべてが教室に子どもが入ることができず、翌年からは5.6年生が本校へ、さらに翌年からは4.5.6年生が本校に通うようになります。

 下の写真は、昭和元年の内郷第二尋常小学校と白水分教場で学ぶ児童数の数が分かる貴重な資料です。白水分教場には5年生までが通っていましたが、学級数が5から4に変更されています。学年で30人が在籍していても、複式学級であったことが分かります。

 この後、太平洋戦争が起きて、児童数等の記録等は途絶えてしまいます。

 太平洋戦争中には、白水小学校の西側の湯の岳にB29爆撃機が墜落したというお話も地域の方から伺いました。