草野中学校の様子

いじめのないいわきが輝く街づくり 作文・標語コンクール出品作品

いじめのない子どもが輝くまちづくり運動
いじめ根絶作文・標語

「いじめ」と「いじり」の境界線
          2年 村上莉花
   何処までがいじめなのか。私はふと、疑問に思いました。つまり、「いじめ」と「いじり」の境界線は何で決まるのか、ということです。
 最近の人たちは、私が言うのも何なのですが、言葉遣いが悪いです。人に対して、「バカ」や「死ね」など普通に罪悪感などまったくもたずに使います。そして、「いじり」です。相手を思いやっての言葉なら良いのですが、「この子は優しいからこれをしても大丈夫だろう」と一方的な思い込みで相手の嫌がることをする人も増えてきました。それは、ほぼ「いじめ」に近いもの。物を隠したり、相手を傷つける言葉を発したり。私としては、完璧にいじめだと思っています。でも、やっている本人は悪意を一欠片をも感じていません。そして、やられている本人もニコニコ笑っています。私が、おかしいのか。そう思いました。
 私は、何度もそのことで迷いました。自分がやられたこともありますし、他人がやられているのも見たことがあります。そして、やったこともあります。
 「物を隠す」ということが現在増えてきていることの一つだと思います。よくよく考えると、犯罪になりかねません。私も親しい友達に何度かやったことがあるので、やっている人の気持ちがよくわかります。本当に気軽な気持ちでやっているのです。かまって、かまって、と一つの愛情表現みたいなものです。しかし、やられている側はどうでしょうか。私は一回、ものすごく激怒したことがあります。
 仲の良い友達に上着を隠された時のことです。私は、上着を一生懸命探しました。友達にも間違ってないか、確認しました。その時友達は「持ってない」と答えました。いくら探しても見つからなかったので、友達を疑うみたいで嫌だったのですが、もう一度友達に聞いてみました。すると、「うん。これだよ」とずっと手に持っていた上着を差し出したのです。そのことに私は頭にきて、その日は帰りました。
 今思うとそれは、とても自分勝手な気持ちだった気がします。人にやったことを、自分がやられたら、怒るなんて。その時の私はきっと、隠されたことに怒っているのではなく嘘をつかれたことに怒っていたのだと思います。
 これはまだ何だと思えることです。自分がしたことがそのまま帰ってきただけなのですから。私が今でも悩んでいることは、他人がやられるのを見ていたことです。
 彼女はとても優しい子です。嫌なことも文句一つ言わず笑顔でやるすばらしい子です。彼女は優しすぎるゆえに、よく「いじり」の対象にされていました。ある日、移動教室の時、確かに持ってきた彼女の筆箱が消えました。彼女は必死になって探しました。私も協力しました。ただ、気になったのが、目の前に座っていた女子二人です。なにかを隠しているようなそんな顔をしていました。二人にも聞きましたが、「知らない」と答えるだけでした。結局、見つからず私のシャーペンや消しゴムを貸すことにしました。すると、机の上には、ついさっきまでなかった筆箱が置いてありました。目の前に座っていた女子二人は「私たち知らない」と言いながら笑っており、罪悪感は感じられませんでした。そして、優しい彼女は悲しそうな顔をしたのです。
 私はこの時、「やめなよ」と言うべきでした。でも、二人の悪意のない笑いになんて言って良いか分かりませんでした。
 そして、考えました。「いじめ」について。最近では、被害者がいじめと思えば「いじめ」なんていうことも言われています。それは、確かにそうだと思います。しかし、それだけだと不十分です。「周りが見ていて不快な言動を他人に対してしていること」もいじめだと思います。
 人を傷つけることは簡単です。でも、人と仲良く分かち合うことは容易ではありません。だからと言って簡単な方に逃げてはいけません。それは、自分の弱さです。
 私はこれから、人に対して、一緒にいたいと思われる、心の温かな人間になりたいです。いじめも決してせず、他人と強い絆を持てる人間になりたいです。そのためには、人の気持ちを考え、これをやられたらどう思うかなどと、想像し、他人と歩み寄る強さを持ちたいです。


明るい未来へ
     2年 熊谷 直人
 「いじめ」どうしてこの世の中には、こんなことがたくさん起きるのだろうか。
 これは、日本だけではなく、世界中どこにいても起きていることだ。
 ぼく達と同じくらいの年の人達がいじめを苦に自殺をしているが、このニュースを見るたびに、ぼくは辛く切ない気持ちになる。
 テレビを見ていると、いつも誰かが自殺をした後に、学校や親が初めて知ったような話をしているが、本当にそうなのかと疑問に思うことがある。また、まわりの友人達も気づいてない訳がないとぼくは思う。
 そうするのは、皆、自分を一番に守りたいからだと思う。実際、そういう場を見ておもしろがっている人達もいると思う。しかし、心の中では、「かわいそう」「助けてあげたい」と本当は、そのいじめをよく思っていない人も絶対にいるはずだ。でも、助けたことにより、「今度は自分がいじめられるかもしれない」という不安や恐怖が、その助ける勇気を押し殺してしまっているのだと思う。
 「あの時、ああしてあげていれば、こうしてあげていれば」と後から後悔しても、亡くなった人はもう二度と戻ってこないのだ。亡くなった人の家族も、いじめをしていた方の家族も、助けられなかった人達も、これから先、ずっとその悲しみと罪悪感を背負って生きていかなければならないのではないか。そしたら、その先、だれが幸せになれるのだろうか。
 だれもしあわせになれないのではないかと、ぼくは思う。
 「十人十色」この四字熟語はよく聞いていたが、十人いたら十人がさまざまなのだと。
 だから、実際に性格の合う人と会わない人がいても、おかしくないのだ。無理に合わせる必要もないとは思うが、強い人間が、集団で弱い人間をいじいめることは、どうだろう。
 これは、一番やってはいけないことではないだろうか。
 よく、いじめは、いじめる方にもいじめられる方にも原因があるというが、いじめる人は、その人の何が気に入らないのか、いじめられる人は、自分のどういう所が気に入られていないのか、それがお互い分かればいじめは起きないのではないか、いろいろ考えてみた。
 ぼくが考えられたのは、いじめる方にも、「何か悩みがあるのでは」ということだ。
 例えば、「実は寂しい」とか「自分ないものを持っているしっと」、「仕返し」、「反応が楽しい」、「ストレス解消の為」など考えられることはたくさんあると思う。
 一方、いじめられる方は、「なまいきな態度をとっていた」とか、「いじめがいのある反応をとっていた」とか、「うそつき」、とか原因はいくつか考えられた。
 ぼくは、言葉は何のためにあるのだろうかと思った。
 解決策としては、その時、その場で話し合って解決できることが本当は一番良いのではないかと思う。
 しかし、それができなかったら、けんかなどをし、お互いに素直になれず、誤解の気持ちを持って、いじめる仲間を増やしていき、集団でいじめをすることに繋がるのではないか。
 そうすると、その間で、一方の話ししか聞かず、いじめに加わっていた人間が、もしかしたら一番最低な人間なのではないかと思った。
 ぼくは、嫌なことがあった時や、疲れた時いつもより多くのため息がでているらしい。
 そんな時、だいたい気づくのが母だ。
「何かあった。」
と聞いてくる。
「何で」
とぼくが言うと、
「さっきからため息ばかりついているから。」
と、すぐわかるらしい。そうすると、ぼくは、少し気持ちが軽くなり、「足が痛い」とか、自然とはきだすことができる。
 そして、いろいろ話し合い、「次の日も頑張ろう」という気持ちになれるのだ。
 ぼくにはぼくを守ってくれる場所がある。そして、楽しく遊べる仲間がいる。そんな人達に支えられて、自分は幸せだとつくづく感じた。
 ぼくの周りには、そういう人達がたくさんいる。心から信頼できる仲間がいる。
 だから、ぼくの周りでいじめられている人がいれば、ぼくは、勇気をだしてそういう子を助けたいと思う。
 そして、その子にたくさん笑って生きて欲しいと思う。
 死んでも何一ついいことはない。そう伝えたい。一緒に勇気を出そう。
 


2年 小野 美咲

   じょうだんの
           つもりだった・・・じゃ
                            許されない。