日誌

白水小学校の歴史

NEW 白水小学校の歴史⑦ 現在の校舎に込められた本校の歴史

 上の写真は、現在の校舎になる以前、平成4年まで使われていた白水小学校の校舎です。

 白水小学校は昭和28年に独立しましたが、それ以前は内町小学校の分校として存在していました。

 写真の前にある青い屋根の建物は、分校の時から使われていた古い校舎で、その後ろに立っている2階建ての建物が、独立後に建てられた校舎です。

 この分校時代から使われていた校舎は、白水小学校の歴史を最も長く知っている建物とも言えます。相当に古く、何度も改修を重ねてきた建物で、中には黒ずんではいるもののぴかぴかに磨かれた長い廊下が一本通っていたそうです。

 平成5年に、分校時代から使われていた校舎と独立した後に建てられた校舎は、取り壊しとなり、現在の校舎が建てられました。下の写真です。

 お気づきになったでしょうか。現在の校舎の土台となる部分には、分校時代から使われていた石垣がそのまま残されています。きっと、あえて石垣を残したものと思います。

 独立する以前の戦争中からずっと白水小学校を支え続けていたこの石垣が、今もなお、白水小学校を支えてくれています。この石垣がいったい何人の子どもたちを、教師を支えてきたのだろうと思うと、長い歴史を感じます。

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NEW 白水小学校の歴史⑥ 少人数のメリットとデメリット

 年号が平成に変わると、独立した昭和28年に建設された校舎は40年以上経っており、老朽化も進んでいたために、多くの地域の方々のご尽力もあって、新校舎が建設されました。平成5年に完成した現在の校舎は、いわき市内では珍しい木造の校舎です。現在も、本校を訪れる多くの方々が、木材がたくさん使われている校舎に驚きの声を上げられます。

 

 

 新校舎完成を翌年に控えた平成4年度からは、児童数の減少により、複数学年が同じ教室で学ぶ複式学級が始まります。以後も児童数は減少を続け、平成6年度からは1・2年生、3・4年生、5.6年生の3学級(完全複式)となりました。平成18年度には児童数が一桁の9名となり、本年度は全校生が3名にまで減ってしまいました。

 児童数が少ないことによるデメリットは確かにあります。授業では児童同士の学び合いが成立しにくいことや、いろいろな子どもによる多様な意見に触れる機会が少ないことなどです。

 現在、白水小学校では、そうしたデメリット面をカバーすべく、近隣の小学校との合同授業や、全校生と全職員がいっしょに道徳の問題について意見交換をする全校道徳等を実施しています。

 一方で、児童数が少ないことは、様々な面でのメリットもあります。

 一つ目は、一人一人の児童の活躍の場が多いことです。毎日の授業では、必ず何度も発言をしたり発表や説明をしたりすることが普通です。先生の発問には必ず答えなければならないという意識で授業に臨んでいますから、授業中は集中して話を聞いています。

 また、個に応じた指導が徹底して行われます。一人一人に目が行き届く環境は、その子のできなさやわからなさに寄り添い、その子に応じた指導方法を工夫して、その子が分かるようになるまで、できるようになるまで繰り返し指導をしています。

 学校行事等では、どの子も大きな役割を担います。人数が少ない中で、自分がやらなければならないという自覚をもって子どもたちは日々生活をしています。入学した時から、そうした環境の中で育つ子どもたちは、「自分がやらなければならない。」と思っているようです。

 人数が少ないために、宿泊学習や方部音楽祭など、他校では学年を指定して行うような行事にも全校生で参加します。6年生ともなると、これまでの経験を生かしてリーダーシップを発揮したり、練習をリードしたりするなど、成長した姿を見せてくれるようになります。

 

 

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NEW 白水小学校の歴史⑤ プールと体育館の完成

 炭鉱の労働者の子女のための私塾「智徳学館」として明治31年に歩みを始めた白水小学校は、昭和33年に児童数775名となりましたが、石炭から石油へと変わるエネルギー革命により、次々と炭鉱が閉山に追い込まれ、昭和51年に常磐炭鉱は完全に閉山されます。昭和51年の児童数は106名で、ピーク時の7分の1以下まで減っています。

 創立当時、白水小学校にはプールがなかったために、地域の方々や当時の教職員の皆様のお力で近くの白水川を堰き止めて水遊びをしたとの記録もあります。児童数が減っていく中でしたが、こうした現状を踏まえ、地域の皆様の働きかけもあり、昭和49年にはプールが、昭和54年には体育館が完成しました。

 

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NEW 白水小学校の歴史④

 上の写真は昭和30年度の運動会の写真です。校庭の端から端まで子どもたちがずらりと並び、応援する保護者は二重、三重となって校庭を取り囲みました。

 独立した昭和28年に550名だった児童数は昭和33年には775名まで増加し、昭和35年には全学年が3学級編成の全18学級となりました。白水小学校が一番賑わっていた当時の写真の1枚です。

 歴史上、白水小学校に最も児童数が多く、賑わっていたころですが、炭鉱の私立学校から始まり、炭鉱で働く方々の子どもが学ぶ学校であった白水小学校にとって、炭鉱の閉山に伴う不況の波は大きなものであったようです。

 本校第3代校長の佐藤恂先生は、当時の様子を次のように述べています。

「私が白水小学校長を拝命したのは昭和34年の4月だった。その当時の白水小学校は独立日が浅く内容外観共にやらなければならない仕事はあまりに多過ぎたので何から手をつければよいかと思い悩んだ。当時、炭鉱は不況のどん底にあった。こうした生活の不安は無邪気な子供たちにも影響しない筈はない。何とか救う道はないものかと考えてはみたものの、怒涛のように不況の荒浪はいかんともしがたい。子供たちが学校にいる時だけでも楽しく明るく暮らさせてやりたい。それが私に出来る唯一の道だと知った時、私の心は決まった。(中略)

 校舎が暗いのは天井板や壁がすすけているからだし、うるおいがないのは、緑の木や花がないからだ。原因が分かれば治療は簡単だ。簡単だといっても金があればの話。不況に悩んでいる父兄から寄付を集めることは絶対にできない。こうなったら教師自らの手でやるしかない。先生方に相談したら喜んで賛成してくれた。

 ペンキを塗るのは器用な松田先生が中心となってやることにした。授業が終わってから始めるのだから、どうしても五時か六時頃まではかかる。冬の日は短く、暗い道を手探りで帰った日が何日あったか知れない。

 壁を塗るのは私が引き受けた。これは簡単だ。塗料をべたべた塗ればよい。穴の所は新聞紙をとかしてのりを混ぜて穴につめこみ、その上に塗料を塗る。

 樹木を集めるのは、私と佐々木教頭が先頭となる。木を寄付してもよいと聞くと、2人でリヤカーを引っ張ってどこまでもおしかけていく。掘り起こすのも容易でないが、植え付けるのも骨が折れた。空き地には草花を植えた。学校が見違えるように美しくなった。花園のような学校だと言われて嬉しかったものだ。」

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NEW 白水小学校の歴史③ 白水小学校の独立

 終戦後の昭和28年。内郷第二尋常小学校(現:内町小学校)は児童数が相当に増えたために、白水分教場は晴れて「白水小学校」として独立します。

 残されていた写真には、白水小学校が誕生する日に、現在の内町小学校でお別れの式典を行い、その後、徒歩で移動する子どもたちの姿がありました。

  白水町には独立して学校ができるという明るいニュースでしたが、その当時はエネルギー革命が始まったころでもあり、炭鉱は衰退を始めていた頃のようです。このあたりの様子を白水小学校初代校長の永井昌次先生の手記から紹介します。

~初代校長、永井昌次先生の手記より~

 昭和28年4月1日、内郷町立白水小学校が創設され、私が初代の学校長として任命されました。白水地区と言えば、常磐炭鉱の発祥地で沢全体がほとんど炭鉱依存による生活で昔時はその隆盛を極めた地、28年当時は、昔の姿は見られず炭鉱施設も遂時取り払われ、また、中小炭鉱も水没等による廃鉱の止む無き事などで生活全体に深刻さを増しつつあったように思われてなりません。

 この様な地域社会の環境下にあって学校の誕生・独立、各学年2学級編成12学級、職員数15名、在籍児童数550名、第1回卒業生約110名、こうした状況下における学校経営方針は如何にあるべきかなど、当初は毎日のように職員会議や打合せ会、PTA役員会等を開いて語り合いました。

【新校舎の建設】

  分校時代の校舎は、狭い上に古い。そのため、町当局のお力によって2階建て8教室の建築に取り掛かり、28年9月にその落成式を挙行することができました。子どもたちの喜びは言うまでもなく、白水町全体が明るさと喜びに満ちました。

 

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